境界線で揺れる私たち
第39回(令和元年度)
全国高校生読書体験記コンクール県入選
中山慎太郎さん(新潟県立新潟高等学校)
とある絵本に出会った。それは本棚に置かれていた。「正しい暮し方読本』その題名に引かれて手に取った。中をのぞくと、現代の当たり前の暮し方を批判するように筆者なりの生き方が書かれている。イヌを飼うときはしつけてはならない、などかなり独特な内容だったが、私はこれらの内容に深く共感し、筆者が好きになってしまった。そして筆者である「五味太郎」さんの他作品を読んでみたいと思い、この本にたどり着いたのだ。
私に限らず、大半の学生は親の言うことを聞いて生活し、学校では先生に指導されながら学習をしている。言わば、大人の言うことを聞いて、大人の望み通りにされるがままでいるのである。多少なりとも反発することはあっても、結局はこちらが折れざるを得ない。しかし、これは当たり前のことなのである。この本では、その当たり前を作り上げる「大人」の問題をとりあげ、これからの世界を作っていく「子ども」を主体にした文章が書かれている。
例えば、とある小学生が「○○のように降る雪」の空白に当てはまる言葉を選べ、という問題に「座布団」と答えたら不正解だったことに対して、新しい言葉の表現のスリリングさが妨げられると書いている。また、「犬喰い」や「動物みたい」といったような動物を比喩にすることで人間が偉いとする大人たちの風習を批判している。こんなふうになかなかユニークではあるが考えさせる深いテーマを、この本は沢山与えてくれる。
突然ではあるが、何故私がこの高校一年生の読書感想文というタイミングで、この本を選んだのか説明しようと思う。高校一年生というのは、まさしく子供から大人になろうとし始める大切な時期である。社会的に自立し、自分で身のまわりをこなさなくてはならない。周りからもそう聞かされていたし、自分でも社会の一員になることばかり考えていた。そんな時にこの本に出会ったのである。この本は理不尽な大人の社会を痛烈に批判した本である。もしこの本に出会わないでいれば、私も理不尽な大人の仲間入りをしていただろう。子どもと大人の境界線で揺れている私にできることは、自分たちの後の世代を考えられる大人になること、それを目指すことだ。恐らく大半の人たちは子どものときには大人の理不尽さに反感を覚えるのだろうが、皆同じように、その大人の型に当てはめられながら成長していく。そしてしまいには自分の子どもに自分がされてきた理不尽な当たり前を押しつけるようになる。悪循環だ。この本を読んだおかげでその循環に気付けた私は、意識して行動を変えることができる。
この本は「子供は大人の充足のためのものではない。」そして「大人は子供を見守るサポーターになろう。」ということを提唱する本である。私はこの本を読んで深く感動したし、私の他にもこの本に共感する人が沢山いる。ただ悲しいことに、この本のファンがいくらいたところで、社会は何一つ変わらずに今日も動いている。子どもに自分たちの欲求を押しつける大人たち。いくら批判したところでこの構図は「当たり前」として確立してしまっている。変えようにも変えられないのだ。この本の筆者である五味太郎さんは絵本作家でもある。この本の中にも、ところどころにかわいらしい挿絵が描かれているが、最後のあとがきの部分にも挿絵とともにこのような文が書かれている。
「どーなっても知らんぞ」
この文から推測するに、きっと筆者も、いくら言ったって社会が変わらないことをどこかで知っているのだと思う。だからこんな投げやりな文を最後にそえたのだと思う。だがそれでもこの本を出版したということは、少しでも多くの人に事実を気付いてもらいたかったのだと思う。事実を受けとった私は、責任を持って、この本の内容を心に刻もうと思う。
この本を読んで、子どもに自分たちの型を当てはめたがる大人たちの姿が分かった。また、そんな社会を変えることは難しいとも分かった。社会的に自立した大人になることも大切だが、世界は全て大人のものではない。後の世代、自分たちの子どもたちを尊重し、見守る精神を忘れないような大人になりたい。社会を変えることはできなくても、自分のまわりの環境を正すことならできる。この思いを単なる思いで終わらせず、行動として実践するためには、自分の考えをはっきりと持ち理不尽な当たり前に飲まれない強い人格を保つことが大切だ。長いようで短い高校生活の中で社会の存在と向き合い、自分で考え、大人へと近づいていきたい。