インターネットdeふるさと講座
新潟県立図書館所蔵史料から明治の「新潟」をたどる
新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、外出を控えて自宅で過ごすことが多いこの冬、自宅でもお楽しみいただけるサービスとして、「インターネットdeふるさと講座」をお届けします。
本講座では、講師に元新潟県立文書館副館長の本井晴信さんをお招きして、県立図書館が所蔵する戊辰から明治にかけての地図・絵図と錦絵についてお話しいただきました。
※本文は講師と図書館職員による実際の会話を記録したものです。
※講師は新型コロナ感染症予防対策としてマウスガードを着用しています。
本日のテーマは「新潟県立図書館所蔵史料から明治の【新潟】をたどる」ですが、最初に明治の幕開けと共に起こった戊辰の役に関する資料をご覧いただきます。「戊辰擾乱官軍繰込配陣図」です。
本井:きれいに、丁寧に書いてありますね。細かく書いてあるものは、拡大して細かなところまで、舐めるようにして見てやってください。当時の人が一生懸命書いて作ったものですから。
新潟県立歴史博物館で行われた企画展「戊辰戦争150年」の際に展示資料として貸し出された一級史料です。柏崎、鉢﨑、青海川、鯨波における配陣の様子が書かれています。
本井:どうやってこんな、海からこの景色が書けたんだろう?船に乗って書いたんでしょうかね。今、同じ場所に立って眺めても、山や海岸、同じ景色じゃないかなと思います。今では、国道は整備されて、内陸側を走るところが多いと思う。でも、鯨波から鉢﨑にかけてのところは大体同じような景色のところを走りますかね?西軍が海岸沿いに高田の方から攻めてきて…大砲曳いて、わっせわっせとやってきたんだね。柏崎のすぐ手前の鯨波もほんの短い距離だけれども、あの辺は岩浜みたいになってるし、地形的にも平場があんまりないし、ずいぶん辛かったんじゃあないでしょうか。
長岡のあたりは激戦地というイメージがありますが、このあたりも激戦だったんでしょうか。
本井:激戦ですね、地形的に見てもそうなるでしょう。街道って、この海岸端のゴツゴツしたところを走るしかないんでね。昔の、明治天皇の北陸御巡幸の時もこの道通ってます。まぁ、天皇御一行も戊辰の激戦のことを思いながら通っていったんじゃないでしょうかね。
そして、明治に入って作成された地図が、こちら「新潟県下越後国全図」です。明治期に作られた地図ですが、細かい年代まではわかりません。
本井:地図には書かれてないね。おおよそ年代を推測するのは、東蒲原郡が越後に入ってるか福島県側になってるかぐらいなんですけども。これは抜けてるんじゃないかな?見てみて。津川町とか鹿瀬とかその辺が入っているか、抜けているかですね。今の国道49号線を福島県側に向かって、五泉からその先、安田を通って小松のあたりが書いてあるかどうか。書いてなければ、明治19年より前。明治19年に東蒲原は福島県から越後へ復帰しますから、それで今の新潟県の範囲が決まるんですよね。
この辺は、ずーっと…100年前ぐらいから会津方面との文化行政のつながりが強い地域でした。特に津川は会津藩領だったし。東蒲原は「越後国東蒲原郡」と言いながら、ほとんど「福島県東蒲原郡」なんです。それを反映して明治になってから福島県の一部となってしまうんですけども、やはり元々の歴史的な境界線は越後の東蒲原郡ですから、まぁ戻そうって話になったのかな。地元の人は、会津を中心とした感覚がずっと続いていたと思いますよ、特にお年寄りたちはね。旧制中学や女学校は「会津へ行きました」っていう人が結構いるんですよね。それに改まった買い物する時、新潟に出てこないで会津に行くんです。昔に私が聴いた時は、それが普通なもんでしたけどね。今はさすがに現代の境界線に従った生活に変わってきてますけどね。
江戸時代の蒲原地域のお城というと、新発田か…村上は遠すぎますよね。親近感を覚えるのは会津ということなんでしょうか。
本井:うんそう。その殿さまの支配を受けているっていうね。「恩恵を受けている」っていう感覚がすごいんだわ。歴史的なつながりはもちろん、生活の全部が会津領って感覚ですから。「やっぱりそっちになった方がいい」っていうようなこともあって…ちょっと紆余曲折あるみたいですね。
「新潟県下越後国全図」は、東蒲原の表記から明治19年以前作成と考えられますが、こちらの地図2点は、東蒲原が越後に戻ってきてからの地図ということになります。「新潟県管内新独立町村区画全図」、「新潟県管内国県道里程実測図」です。見比べてみましょう。
新潟県管内新独立町村区画全図(越後佐渡デジタルライブラリー)へ
新潟県管内国県道里程実測図(越後佐渡デジタルライブラリー)へ
本井:粟島が書いてあると思うんだけど。粟島ってさ、粟の島って書いてるか、他の書き方をしてるか、大正時代くらいまでかなりぶれてますね。赤青の青を書いて「青島」って書いてある例もあるし、粟の生える島で「粟生島」とかね。アワオシマって発音するのかな?地元の人たちがどういう風に言って、それがどう聞こえてるかがポイントなんだけれども、「アオシマ」っていうような言い方をしてる人も多かったんかなぁという気がします。それこそ中世から人が住んで非常に歴史が古くて、特有の文化もあるところなので、その時代その時代で、どういう風に地元がこの島を発音してたか、また本土側でもどのように呼んでたか、いろいろ調べてみるとその変化が分かるかもしれない。人によってもぶれているかもしれません。
明治19年以前の地図は海岸が下側に書かれていますが、これらの地図は山が下、海が上ですね。
本井:この図の基、おそらく海岸線は伊能図じゃないかなと思います。それから全体…ほら山のところはケバ式で書いてありますから、政府の進めていた20万分の1帝国図の引き写しじゃないかなという気がします。すでに帝国図ができていて、それを写して縮図にしたんじゃないかな。伊能図ってのは海岸線が中心ですけれども、非常に実測図としては精度が高いし。だから輪郭は最初からできてますから、後は内陸の方の実測をどういう風に進めていくかに集中できた。山の地形は実際に足で歩いて山のてっぺんまで行って測ってるんですけれども、どうしてもね、人がやる仕事の中にはちょっと見間違いもあって、尾根の結び方が違うところが結構あるんですよね。それが改まったのは、本当に戦後の昭和40年代くらいになってからです。とは言え、富士山のてっぺんだろうが、槍ヶ岳だろうが、この測量士さんが実際に歩いたってのは、この明治時代の大成果ですね。もう一つには、こうやって正確に日本の国土を政府がきちんと把握するっていうことの証は、やっぱり地図の存在ですから。具体的に生産の現場が目で見てわかるっていうビジュアルな効果って大きいよね。
伊能図なんかは、当時極秘資料だったということですが。
本井:うんそうですね。だって一般の人の目には触れない、全く知らない話ですよね。でも、今ここにある図面の多くは、一般の人も欲しい時には手には入るような頒布の仕方をしてたはずです。「時代が変わったなぁ」というふうに思った人は多かったと思いますし、何よりも情報が正確になっていったことは間違いない。ましてや、こうやって全国を統一的な基準でもって測るっていうことがね、短期間のうちに実現できたっていうのは、それはやっぱり民主政府の力ですね。
これらは、買おうと思えば買えるくらいの値段だったのでしょうか?
本井:だろうと思います。ちょっと高いだろうけど。
やっぱりお高めですか。今でも地図1枚で500円とか600円しますものね。
本井:それを高いとみるか、安いとみるか。かつて寺田寅彦さんは「だいたいコーヒー1杯ぐらいの値段だよ」って言っていたのは、まぁ当たりですね。
ところで、この新潟県属・永井独楽造って人は、製図の技術者なんです。
独楽造さんの地図は結構所蔵していると思いますが。
本井:うん。この名前よく聞きます。県立図書館で所蔵している一番大きな「新潟区全図」、あれ作ったの、この人だしね。あれと同じ頃の、今、新潟大神宮にある新潟市内の図面もそうだし。独楽造さん大活躍ですよ。
「新潟区全図」も用意してあるので、後ほど開いて見てみましょう。でも、その前に時系列に資料を見ていきましょう。今度は錦絵「新潟湊之真景」です。これも明治期の新潟湊を描いた有名な錦絵です。
本井:これもこうやって額装にして正解でしたね。元々は折り畳んであって、それに表紙がついて袋に入れるかして販売されていたんで。まぁだいたいそういう販売の仕方が普通ですね。
博物館でも所蔵しているところありますよね。
本井:みなとぴあ(新潟市立博物館)では、もうちょっと原型に近い状態で持ってますね。県立図書館のこれは、もうかなり色が褪せてますから、これ以上褪せないようにしましょうね。
そうですね、ここぞという時だけ展示するようにしています。このほかにも、劣化が激しい資料はデジタル化して、画像でご利用いただくことにしています。
さて、「新潟湊真景」には船がいっぱい浮かんでいますが、当館には、この当時の船の形を記録した資料を所蔵しています。「開港以降入進外国舩及西洋形日本舩略図」です。明治維新以来新潟港に入ってきたであろう西洋型の船、ロシアや英国の船が描かれていますし、日本の川船なんかも載っています。
開港以降入進外国舩及西洋形日本舩略図(越後佐渡デジタルライブラリー)へ
本井:新潟港ぐらい江戸時代以前からの拠点の港になると、だいたい港町が発達するし、流通にかかわる商人が何軒もあったりして船の出入りも頻繁になる。…となると必ず港の管理者ってのができて、いついつ、どこの船がどういう目的で入ってきたかっていう記録を取るんです。だから今でも古い港町に行くと客船帳ってのが残っていて、それ見ると、事細かに船の形っていうより、帆のデザインで見分ける方法が書いてあります。新潟の名簿もそんなふうに何冊も作られていたと思うんだけども、今のところ一点も発見されていないから「もう無いのかなー」と諦めるしかないんですけどね。でもその中でも、これなんかはせめてもの幸いっていうかな、よく残されたもんだなと思いますよ。横浜とか長崎は幕末から日付単位で入港出帆の記録があるんです。いわゆる「Shipping List」ってやつ。これが大事なんですよ。これが新潟にも残ってたら最高なんですけどね。
「開港以降入進外国舩及西洋形日本舩略図」については、日和山あたりから見て、「あれはどこの船だ」って確認するためのカタログのようなものなのかなと思っていました。
本井:まぁ、そういうこともあるかもしれないね。当時はあれくらいの高さに登るだけでも港が全部見えたんです。ちょっと火の見の梯子を登れば全市見えるような時代ですから。「日和山」ってのは、こういう港町には町の設備として必ず存在します。どこの船が入ってくるっていうのも専門に見る人がいてね。特にこういう信濃川のような大河の出口は、気をつけないとすぐに港が砂で浅くなるんですよね。そうすると入れるか入れないかっていうのは大きな問題です。「この船なら大丈夫」「この船は危ない」っていうこともあるし、それから川の中は、どこが深い浅いって、船の行路に安全かどうかっていうのが、やっぱり地元できちんと毎日確かめておかなきゃいけないことなので。そうすると水先案内が同時に活躍するということになります。大量の土砂が毎日毎日上から運ばれてくるし、どんな溜まり方するか分からないんで気が抜けないんですよ。その土砂の溜まらないところを、すり抜けて船が入ってくる訳よね。それが水先案内の大事な役目ですよね。
港つながりということで、続けて錦絵「新斥税館之図」を見てみましょう。
本井:今の「みなとぴあ」の敷地です。税館の外装は昔からのもので国指定重要文化財ですが、川の方は全部埋め立てられてますね。復元的に建物のところに堀を掘って、当時の水際がわかるようにしています。この図で本来の状況を見知ってから行ってみると、当時の人の感覚を実感できるかもしれない。
大きい船は沖にいて、一部は河口まで頑張って入ってきているけど、岸辺のあたりは小舟ですね。堀をずーと進んでいって、荷物を運んだりということもあったんでしょうか?
本井:そうですね。おそらく沖がかりしてさ、町の方へ入っていける程度の小さな舟に積み替えて、主に川に近いところに海産物問屋っていうのが、そういう人たちの店と倉庫がありますから、そこへ運び込むことになります。うちもこの辺にあった。かなり狭いところにひしめいてますけども、当時としてはこんなイメージだったんですね。ただ、税館のできた頃のこの場所は、信濃川の一番河口の中洲がくっついて、ようやく谷地川が土地になり始めているようなところですからね。まったく葦谷地。狐が出た言うてましたから。今でこそ町の真ん中みたいになってるけども、湊町通りはこの税館ができたおかげで道ができたようなもんで、この絵図の頃は本当に隔絶された別天地だったんじゃないですか。
では、次に反対側、新潟町の起点部にあたる「白山遊園之図」を見てみましょうか。
本井:新潟町の一番端と言えば端なんだけど、ここから町が始まるということになる。
一番町ですね。
本井:そう、みんな一番町。白山様から始まって、古町は十三番町、本町は十四番町、上大川前は十二番町かな。で、これの正確な年代は?
明治15年とあります。
本井:じゃあ、町ができてからずいぶん時間が経ってますね。この白山公園になってからの話ですね。
この絵には分水開削以前の信濃川下流域が描かれています。川幅が非常に広いですよね。
本井:ずーっとね、白山浦っていう入り江になっていて、今、県民会館とかりゅーとぴあ(新潟市民芸術文化会館)があるところ全部、この入り江になっている場所であったと。
奥の水辺に浮かんでいるのは川船ですか?ミシシッピ川の船みたい。
本井:外輪船ですよ。新潟から小須戸とか白根とか、ずーとさかのぼって長岡あたりまで行くのもあったと思いますね。定期船が行き来して。
何か所か中洲が見えますが、かなり川が浅いということですか。
本井:深いところと浅いところの差が大きいんでね。浅瀬ができやすい地形です。その浅瀬を利用して埋め立てを進めて、いまの白山浦という町内の地盤ができている。…ここが白山様の拝殿だな。本殿と拝殿がある。仁王門がないですね。この当時仁王門がなかったですね。
この緑のところは池ですか。蓮が描かれていますね。あの蓮池は昔からあるんですね。
本井:そうそう古いんです。由緒正しい歴史があるんですよ。鳥居が三基ぐらいありますけれど、仁王門が無くなったのは、神仏分離の廃仏毀釈で騒がれたんだと思います。あれ昭和五十何年だったかな。随神門として再建したんですね。で、ここにね、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居ってあるんだけど、真っ赤な古町側の鳥居は別として、江戸時代に建てられたのが二基ですね。そのうちの一基は安政の頃だったか、尾道の商人が寄贈したっていうふうに柱のところに書いてあるから今度よく見て。あれ多分尾道から運んできたんじゃないかなと思うんですよ。
海上をですか?
本井:うん。ぐるーっと瀬戸内を回って、船に積んできたんじゃないかな。
「白山遊園図」には鳥居は書かれてないですよね。
本井:それは省略されているんじゃないかと思います。古町側から入って、赤い鳥居の次にある古い鳥居は、あれは与板の商人・当銀屋さんから寄贈されているから地元製作ですね。与板に当銀屋っていう大きな商人がいてね、江口さんって言うんですけどね。材質も、釜沢石っていう地元の石を使ってます。
それも柱に彫り込んであるんですか?
本井:うん、すぐわかる。「当銀屋」っていう名前とか、それから年代も書いてあったと思います。それから村松村の石工が彫ったっていう銘がありますから。村松ってのは、長岡の村松なんですね、栖吉の近く。新潟の古いお墓の石材はね、だいたいそれなんです。栖吉っていう、今は長岡市になっている地域のちょっと山手の方に「釜沢石」っていう石が出る場所があります。この近辺では、石はだいたい長岡の釜沢石か、あるいは間瀬石。あの間瀬銅山の近くの、角田の後ろの間瀬石か、東蒲原に近いところの安田石あたりがだいたいじゃないかと思ってます。安田石は記念碑なんかで使われてます。ほら外の会津八一の、歌の碑がありますよね。あれ安田石ね。ちょっと赤い感じの花崗岩。