その2 新潟の町並みをたどる

[近世新潟町屋並図]を見る本井晴信さんの写真では今度は、近世江戸時代の新潟町の町屋の様子を「[近世新潟町屋並図]」で見てみましょう。今でいうと住宅地図みたいなものでしょうか。

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本井:そうですね、新潟町の範囲とかが分かります。白山様こっちですね。基本的に道筋は今でも踏襲されているから、現代の地図やあるいは写真なんか見てたどることができますよね。堀はみんな道になっていますから。

この線は道に見えるけど、堀なんですよね。橋があって。新潟税館方面から船入ってくるってことですか?いや、こっちからも入ってくるのか。ああそうか、このあたり全部信濃川なんですね。

本井:この辺はもう川端ですよね。税館方面は中洲が付いて町ができつつあるような場所。張り巡らされた堀は、こちらの浜の方の砂丘から湧いてくるような水を吐かせる堀でもあるし、信濃川に着いた船から荷物を下ろして積み替えて、町の方の蔵へ入れるような、そういう時のためのルートでもあるしっていうことかな。

やっぱり当時は商店の方が多かったんでしょうか。

本井:うん、町ってのはそういうもんですよね。今なら、寝起きするだけの人も結構いるけれども、この当時の感覚では、町ってのは大なり小なり商売をやるっていう連中しかいません。百姓いません。農業の人がいないっていうのが建前。「村」じゃない「町」なんです。

このあたりはお寺さんですね。

本井:西堀沿いも、今と全く同じです。白山側から本浄寺、一番その並びで下(しも)になるのが本明寺さんか。往生院か本明寺さんあたりかな。これが江戸の早い頃、明暦の都市計画でこういうふうに決まったと言っていますよね。350年、400年ぐらい前かしらね。それからずーっとさ、変わってないんだよ。NEXT21を作るためにどけたお寺さんが多少いますけども、こういう並びで今現在につながってる。まぁ少なくとも500年くらいいるんだわ。

新潟町の中心部は小さい家がほとんどですね。

本井:そうですね。町ってのは、まさにそうやって人口的に地割をして、特定の区画の中にぴったりと家が建つような、そういう並びを作り上げて、あんまり無秩序に広がるってことを為政者は嫌ったんじゃないかな。要するに農地が減るってことを一番嫌うんですよね。

確かにビッチリですもんね。それはやはり間口で税額なんかが決まるということがあったからでしょうか。鰻の寝床形になっているのは。

本井:そうですね。それは全国どこでも同じ感じで、元は京都の町割りなんかがルーツだろうと思うけどもね。間口4間ぐらいか。広い狭いはいろいろあるけど、だいたい普通だと間口4間の奥行25間。4間だから大体8メートル~10メートルぐらいか。10メートルの奥行25間だから50メートルちょっと。てことは単純に計算すると200坪くらいか。

敷地は結構広いですね。想像以上でした。

本井:うん、あるんだよ。店舗と住宅と、あとは土蔵なりね、そういう設備がみんな一緒くたになるからね。どうしてもそれくらいは要る人が多いんじゃないかと思う。人によっては隣近所を買収して広げるってこともあったと思います。

背中までずーっと貫いちゃうとか?

本井:ああ、通し屋敷って言ってね。そういうところも少なくないです。「とおし」って書いてあるところがそれなんですね。だから、ここなら、若狭屋さんの通し屋敷、ずーっと。

なるほど、「とおし」がいっぱいあります。

本井:俺ん家どこだろうな。六軒小路だったはずなんだけどな。これ書いてあったよ、ちゃんと。この前見たときに。「本井五右衛門」って書いてあるはずです。

商売をやる場合、一番条件のいい場所ってどこら辺でしょう?今だと、上古町とか柾谷小路とかありますけど、この頃はどの辺りが商売として都合がよかったんでしょうか。

本井:それは業種によるよ。海産物なんかを扱っているようなのは、まさに上大川前通りのこういう川っ端ですよね。それから材木問屋も。今の上大川前の上の方は、ちょっと名残があるかなぁ。昔は材木問屋が並んでたんですよね。

今も見かける倉庫とかは、元材木問屋だった土地ってことですか?

本井:そうですね。外から船に乗ってくる人がたくさん出入りしますから、そういう人たちを専門に泊めるような場所とか息抜きの場所ね、そういうのがそこ十四番町。幕末になるとね、うちは上大川前の七番町に移るんですけど、それまでは町の真ん中にいたから、別の商売してたかもしれない。海産物色々扱うようになってからは川端の方が便利ですから、そっちへいっています。うちはね、江戸の中頃に新潟の町にやってきて、どこでどう旗を挙げたか知りませんけども。
新津屋小路、新堀、広小路、それから五菜堀、突き抜けているのは…あと…これ新川が書いてありますから、この図面の年代は分からないけども、新川が書いてあるってことは、かなり古いと思っていいと思います。文化文政より古いんじゃないかな、ひょっとして。新川は、その後すぐ埋めますんでね。幕末までに埋めてしまうので、堀が無くなるんですよね。

「新」って付くから新しい川だとばかり…。地図も新しい時代のものかと思っていました。

本井:そうでもないんだわ。名前だけは今でも残っていて、今の人は知らんから「新川小路」なんて言ってるけど。あれは小路と言わないで、ただ「新川」と言うのが歴史的な呼び方です。うちの年寄りは「新川」「新川」言うてましたね。
ああ、あったあった。ここだここだ。ここにうちがあるよ。東堀に面してる。

結構中心部じゃないですか。

本井:このときはまだ長岡藩領だから、今のNEXT21と旧三越のちょうど真ん中の柾谷小路のところね、ここでは西堀のつきあたりに奉行役所があって、もう一つの、新潟町の行政の中心になってました。天保14年に天保改革で、水野忠邦老中の声かかりで新潟の町は長岡藩から取り上げられて、幕領になって「新潟奉行役所」と名前を変えます。で、明治維新になって新政府が入ってくると、今度はここが新潟県庁に変わる。奉行役所そのものが県庁の建物になっちゃう。居抜きで入る。ところが、それが明治13年の大火でみんな焼けちゃって、跡形もない。残念。
とにかく、この「家並図」は大事にしてください。新潟ぐらいの町だったら、もうちょっといろんな時代のものがあっても良さそうだけどね。意外と残ってないですね。

印刷されているものじゃないから、一点ものですもんね。
では、今度は「新潟市商業家明細全図」で同じ地域を見てみますか。

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本井:そうですね。これよりちょっと新しいことになりますか。

明治29年ですから、だいぶ新しいです。これは保存のため裏打ちをして、折りたたまない状態で大切に保管しています。

本井:良かった。これもさぁ痛みが激しいんですよ。人気があるもんだから。

みなさんには、デジタル画像か、昭和に入ってから印刷された複製版をご利用いただいてます。デジタル画像は劣化した原本を撮影しているので、文字の見えないところも多くて、複製版の方が、文字がはっきり見えるんです。

本井:「商業家」ですから、商売をしている人たちの居場所が分かるってのが大きな目的だし、ただ厳密に当時の商家の全部が書いてあるかっていうとそうでもなさそうですよね。当然これ作るためにお金かかりますから、それをカンパしてくれるような人に「載せてあげるよ」と、今と同じやり方で作ったんじゃないかなぁと思います。
今の住宅地図に近い存在で、まぁ町場ですと大体こういうの何種類も作られてきていて、その変遷が分かる場合がありますが、新潟の場合はね、残念ながら明治大正昭和戦前おっかけたいけれども、こんなようにビジュアルに見られる図面の対比ができないんです。すごく残念ですけど。

商家の入れ替わりも激しかったんでしょうか?

本井:おそらくね、そうだと思います。時代の波に乗れない人たちもたくさんいて、うちなんかもそうなんですけど。典型例です。ただ、ここん時は出てるよ、うち、また。上大川前通七番町、ちゃんとここで成功した。

だいたいの通りとか町名なんかが分からないと中々見つけられないですね。

本井:うんそうだね。でも新潟の町の中に住んで、何らかの生業に携わっていれば、まぁそこの中に反映してるはずですから。たとえばさぁ、爆弾事件起こした桜井市作市長の家とかね。どっかにあるはず。
うちには昔の書付なんか過去帳くらいしかねぇんだけど、こうやって、一点でも二点でもうちの名前が出てくるならば、確実に先祖がいたんだなぁということが分かりますし。この明治29年の時に上大川前に名前が書いてあるってことは、まだ幕末以来の海産物問屋の仕事が続いていたんだなぁってのが分かります。ただ、相当落ち目になっているはずです。

本井家の話はさておいて、当時の住所から、その家の状況が垣間見えるということですね。…ところで、この日和山、今より大きく感じますね。

本井:まぁ地形は変わってないけれども、ずーっと松林に砂山に、こうやって一枚の中に町全体を入れ込んで、必要な情報を盛り込むっていうのは相当レイアウトの感覚がないとできませんよ。だから場所によってはすごく無理やり詰め込んだなと思うところもある。余裕をもって書いてるところもあるし。そのあたりのデフォルメの仕方の歪さが面白いですね。

信濃川を入れ、萬代橋も入れつつということですか。

本井:そうですね。萬代橋が対岸と行き来できるよう作られたのはよかったね。よくまぁ、あんな橋架けたなぁ。初代の萬代橋が明治19年ですね、確か。それが明治41年の春の大火でさあ焼けるんですよね。大火のね、火の粉被って橋が半分焼け落っちゃうんですよ。それ絵葉書になってますけどね。

この図の橋が初代ですね。

本井:この当時はそうですね。初代の萬代橋、木橋です当然。橋がそんな大火のあおりくらって焼け落ちるなんて、木材を腐りにくくするために油敷いてたと思うんですね。だからその油が仇になったんじゃないかなという気がいたしますが。ちょっと昔、みんながまだ小さい時は、デパートの床とかそれからバスの床はみんなそういう油敷いた木材でしたよね。

それでは、本日の目玉「新潟区全図」を見ていきましょう。

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本井:これも良くまぁ伝えてくれたもんだと思います。こういう図面、一枚出来てしまうとさ、なんだこんなもんかという印象しかないかもしれないけれども、一定の縮尺で、ちゃんと実測した成果を一枚に全部まとめあげて図面化するっていうのは、相当な技術が要りますよね。これ永井独楽造さんの仕事ですけれども、実測図言うてもね、今みたいに、かっちりと歪みなく作れるかというと、そんな訳にはいかないんで。部分部分をきちっと作ったのをつなぎ合わせて一枚にまとめ上げる訳ですけれども、どうしてもねぇ、そういう時に歪みがでたり、齟齬がでたりするんです。ってのはね、どうしても元の測量の仕方自体が、その部分だけは正しいけれども、隣り合わせてくっつけようとすると誤差がだんだんだんだんでっかくなるっていう、平板測量の宿命なんですよね。その辻褄をどう合わせるかってのは製図師の腕の見せ所。今の国土地理院の前身の昔の帝国陸地測量部、政府機関ですけれども、そういうところが作った地図であっても、縮尺に関係なく平板測量で全国を回って作ってるわけで、その測量だって部分部分を作ったのを1枚の図面にまとめあげるっていう仕事するわけよね。そうするとね、等高線の結び違いとかね、峰の見間違いとかね、結構あるんですよね。それでも実測してその成果を1枚にビジュアルにまとめあげるっていうのは、今まではフリーハンドの絵図しかなかった時代なんだけど、今度はきちんと専門の道具を使って作りあげるようになって、より…なんていうかな信頼度が増したっていうべきかね。それはもう大きな成果ですね。

で、これ明治14年の作であるってことは、この図面には書いてないんだけども、この時一緒にほかにも別の種類で作られたのがあって、それ[みなとぴあ]にみんなあるんで、それと比較するとまったく同じですから、これも14年と断定してもいいなと思ったわけ。で、多分ね、この図面が一番でっかくて、2400分の1なんですけども、これを基にして縮図を作ったり、いろんな他の用途に使われたりしながら、バラエティが増えていったみたいですね。市販の地図で、これの縮図がベースになってるなと思われるのが何種類かあります。

で、ここに書いてあるそれぞれの番地がね、細かく分かれている様子が分かりますけども、今でもこの形は生きています。ただ、こちら浜の方、砂浜から松林の辺なんかは、その後、宅地開発だとか他の用途に転用されたりなんかする時に、一旦これが全部チャラになって、新たにまた区割りし直してますから、随分変わっていますけども、元々江戸時代からの街並みの中は、全く今でもこの通り。基本はこの通りです。あとは民有地とそれからいわゆる寺社と、あとは官有地、いわゆる公的な機関の所有地、それが色分けされてるんじゃないかと思います。

間口4間の奥行25間っていうそれが基本で、場所によっては多少の差がありますけれども、そういう均等に割られた人工的な町並みの地形は、まあ新潟はよく残ったなと思います。で、この均等に町割りが行われている所ってのは、宅地造成の結果なんですけども、お寺の下(しも)の方、川下の方は町割りが行われてはいるけれども、家は1軒も建っていませんからね、この時はまだ。そこに新潟税館の場所がちょっと黄色っぽく書いてあります。そこはさっき絵図で見たとおり、ぽつんとそれがあるだけで、まわりはまったくもう草っ原ばっかりです。ただ図面の上では宅地造成されていますから、家を建てて構わないという作り方でしょうかね。その信濃川の中洲の形がね、そっくり他の図面でも写されていて、ベースがこれなんだなっていうのが分かるんですよ。よくそんな場所を測量したもんだなと思って。平面測量でやろうと思えばできるんかもしれないけどもさ。船浮かべたのかなぁ?どうやって作ったかねぇ。本当具体的な測量ってどんな風な動き方したのか想像してみたいと思うんだけども、中々できない。って言うのはさ、何を基準にして、どこからどう測っていったのかっていうそのポイントが示されてないんですよね、これ。この地図ばっかじゃなくて、昔の地図みんなそうなんだけども、特にこういう地番の表示したような大縮尺の地図ってね、一見正確そうに見えるんだけれども、どこにポイントが設定されたか分からないんです。

伊能図だと星の位置を測ってということですが。

本井:北極星で確かめたっていいますね。

あとは、実際に太閤検地みたいに、四隅に棒を立てて測ったとか?

本井:どの程度そういうことをやったかだね。そんなさぁ、端から端までやったとはちょっと考えにくいんだけどさ。

でも図面の上だけでものさしだけでやったら、絶対ずれますよね。

本井:うん。昔の図面のね不思議なところってそこなんだよな。だからよくあるんだけど、隣の字単位くらいやるとね、隣の字(あざ)とこっちの字(あざ)で間が空いたりダブったりね。どうしてそんな不正確なのか知らんけどさ。どっちも正しいと思って測量してんのにね。全体を合わせるとそれこそ繋がらないんですよ。平面でもそういう調子ですからね、起伏のある所なんて大変な話でありまして、山なんか斜面の通りに測量するからさ、図面が馬鹿でかくなるわけよ。実際に合わせると、もう端っこ海に落ちてしまうというね、新潟のやつは、そんなところもあるはずです。でもこれは、そんな高山があるわけじゃないし、だいたい平場ですから今の都市計画の2500分の1とはほとんど合いますね。で、もう一つありがたいのは、この当時ね、14年当時は、こんなに堀が町の中、縦横に走っていたってことが分かります。今、全部それが道になって残ってるから、今でもちゃんと比較してたどることができるっていうのは、歴史をまざまざと感じることができるっていう点ではすごくありがたいことですよね。
それからもう一つね、この図面見て面白いなぁと感じて、私が非常に貴重だなと思ったのは、ここの図面の中に寄居白山外新田という村がすっぽり埋もれているんです。それ全部地番の違いで分かります。これ新潟一つに見えるけれども、実は真ん中辺に寄居白山外新田っていう江戸時代からの小さな規模の村なんですけども、独立の村が一緒に入ってるんですわ。

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