その3 大河と人がつくった町

新潟区全図と本井晴信さんの写真

村が隠れてるってことですか?

本井:はい。で、それ地番の体系が違っているので。寄居は寄居の地番が書いてありますから、それたどっていくと、どっからどこまでが正確に寄居白山外新田か分かります。寄居の地番の一番地は、今の裁判所の場所。そこ一番地になっていて寄居白山外新田の地籍ですよっていう意味です。その赤い囲みになってるところ、「いち」になってると思うんだけど。

裁判所はここですが…これ「一」って書いてあるんですか。あ、難しい方の漢字の「壱」が書いてあるんですね。

本井:その地番も全部生きてますからね。そこから一番町が始まって。

一二三四ってこれですか。

本井:うん。今の学校裏町から中通り…、この辺から今の寄居中学のあたりから、要するに寺裏、西堀の裏の方かな、それから市の美術館があるあのあたりまで。うん監獄の方ね。その辺までずっと寄居白山外新田っていう村なんです。

この地名の脇に書いてある数字が、ここから始まっているってことですか。

本井:そうそう。隣同志、地番って必ず隣、隣、隣っていう風にね、連続して付けられていきますから、それをたどってみると、新潟の地番なのか寄居の地番なのかが分かるようになっています。新潟の地番の場所、それから寄居の地番の場所、二つが合体した図面になっています。天保の改革で新潟の町は幕領になるけれども、寄居村はその対象じゃないから、新潟の町の範囲の中にぽこっと長岡藩領としてそのまま、抜けるっていうかな?別組織になってる。

新潟市出身じゃない人間にとっては、いわゆる新潟島全体が新潟町ってイメージがありますが、違うんですね。

本井:うん、そう。そう見られてもおかしくないんだけどね。実は新潟と寄居とは別々。地租改正でいわゆる地籍を決めた時に、はっきり「新潟」ってのはこの端から端まで、川と海を境にしてこの範囲だっていうふうに決めたんですよね。だからそっちは関屋村。あっちは出来島村、出来島新田。そして寄居村があるの。今も町内によってはすぐ隣が新潟地番で四桁、でこっちは三桁っていうような、ちょっと連続性がないなあと思われる隣同志があるはずです。それ明細図見て、よーく確かめるとすぐ分かるんです。この時がその基だってことが分かりますよね。

現代の住宅地図と全図を比較すると面白いかもしれないですね。地番も含めて見ていくと。

本井:そうですね。地割がおんなじように残っているところもあれば、大きく変わっているところもある。様々。やっぱりこうやって図面を見るとね、とめどもなく想像力も掻き立てられるし。見て楽しいと思う人が多いと思います。楽しくなるんですよ。目的は全然違ってても、見て楽しくなるのが図面のいいところですね。ましてや自分の住んでたり、関わりの深いような地域であればなおさら。ちょっと時間をさかのぼってみるとこんな感じだったんだなっていうのを知った上で、また町歩きをすると見る目が変わってくるかもしれません。ここでね、地形が分かると、なお良いんだけどね。

高低差ですね。立体的なところも分かると、もっと面白いですね。

本井:そこのさぁ、西鳥屋野島って書いてある、白抜きの部分ってのが、今の学校町通りのあたりと白山浦の町名になっているところですけれども、そこは新潟の地籍ではないところですよね。で、どこの地籍かっていうと、出来島新田なんですね。今の白山浦一丁目、学校町通りの一部。学校町三番町に天神さまが祀られております。その天神さまの境内のすぐ後ろに新潟と関屋の境、それから出来島の境、三方向の分岐点があります。川向こうの、県庁前にあるお宮さん、あの出来島新田のお宮、天神様なんですけども。あれの分社がここです。学校町の天神様。

なるほど、さっきの白山遊園図、古町側からまっすぐに見てるんですね。

本井:そう、そうすると信濃川が後ろにあって。迫っていて。

たしかに信濃川があって、白山公園の向こう側は全部水で。あれは見たままなんだって分かりますね。で、こっちが学校町。

本井:白山浦と学校町だね。あそこ出来島って言うと、みんなびっくりするんだけどね。まぁ、それは江戸時代の中頃までさかのぼる歴史があるんですわ。信濃川の流れがなせる技です。

本当に川の下だったんですね。

本井:うん。埋め立てて整地してしまうとね、ぜんぜん昨日までの姿なんか忘れてしまって、記憶は無くなるんですけども、やっぱり図面っていう記録はね、時々作って残すべきですね。そうすればさ、自分の住んでるところの土地条件がこうだっていう納得がいくはずですし、液状化現象が起きても、まぁ慌てずに済むと。ですから、今そこに西鳥屋野島って書いてあるところは、これからも必ず液状化が起きます!

断言しましたね。

本井:あとのところはね、まず起きない。古町とかね。絶対とは言わないけども、まずは起きない。ただし、そこの多門川に囲まれた、今の礎町、新島町とかね、その辺は中洲がくっついてできた土地で、幕末まで中洲だった所ですから、そこは液状化は起きます。それから今の湊町通り中心のあたり。あの界隈も幕末ぐらいから発達した中洲ですので、稲荷町あたりもね、みんな液状化が起きます。液状化起きないのは、江戸時代からの町並み。上大川前通りから寺町通りまでの間。お寺の並びまでが一番安定した場所です。

昔の写真でよく見る、県営住宅でしたか?ばったり倒れたのってどのあたりなんですか?

本井:あれは川岸町ですから、その白抜きのもっとずーと上の方。それこそ信濃川の中です。あれはもう作り方の問題もあるんだけど、土地自体がこれよりもはるかに新しい町ですから、ああいうことになっておかしくないんです。川の跡だからね。そういう過去の被害状況とこういう歴史的な図面と合わせて見ながら、先読みできる道が開けていく…ということを、今、地震を一つの媒体とした研究を一生懸命やってる地質の人たちの団体があります。いや俺その友達から教えてもらったんだけどさ。とんでもない思いがけないところで液状化が起きているということが、結構、新潟地震の時ありました。で、やっぱり、この時代から人工的に地形を改変したような場所なんかが危ないなっていうのが、そっから読み取れます。昔からの町並みの場所はだいたい安全ですね。ただ、この西堀のお寺さんが並んでいる、すぐお寺さんのこの浜側の方ね、お寺の背中のあたり。今の寺裏っていわれているあたりは、元々どうも信濃川の流れが500~600年前にあったところらしくて低いの。

この大きな流れじゃなくて、支流みたいな?

本井:うんそう。また枝分かれしてたんでしょ。だから寺裏あたりは注意が必要かもしれません。っていうのは、ちょっと窪んでるんですよ。

結局、新潟町自体が巨大な中洲だったってことですか。

本井:そうだね、中洲だね。その中洲の西側の縁にお寺さんが並んでいる。で、その後ろは窪んでいる。ちょっと大雨が降ると水がたまりやすいと。今雨水ダムができたからちょっと解消していると思いますけども、かつてはちょっと大雨が降ると「えんぞがあふれる」(※)なんて言って騒いだことがありました。ま、それだってこっちの砂丘の方から水がドンドン落ちてくるっていうね、それのはけ口が無いわけですから。
(※)えんぞ=側溝、ドブ

土地の高低差が分かる地図と合わせてみると、また見え方が違いますよね。

本井:その情報、大事だよね。今でもそうだけど、砂丘がこれだけの規模ありますと、地下水がどっかかんか(※)湧き出してるところがあるんですよね。その水を抜くための堀も掘られていて…多分ここがそうですね。そこから堀が始まってるような感じになってる。それ地下水抜くための堀です。実はそこ、「異人池」って通称している場所ですけども。こういった図面で見るとね、池なんかぜんぜん無いけども、実際はあふれた水がそこに溜まってたりして、池の形をなしている時期が長かった。で、みんな「異人池、異人池」って言って。すぐそこにカトリック教会の神父さんたちがいたもんだから、異人さんの池だって言ってね。
(※)どっかかんか=どこからか

だから現れたり消えたりしたんですね。排水池というか。

本井:そうそう。その排水路は、今でもその通りに流れてます。宅地になってしまっているから、ぜんぜん昔の様子は分からないけども、なんかの拍子で昔こうだったってことが感じられる時があるかもしれない。ってのは、普段から湿気が高い。

用水路って必要な場所に水を運ぶためのものですけど、新潟町の堀は違うんですね。排水路というか。

本井:ま、どちらかというと排水の方が目的だろうと思います。もちろん生活用水をそこから取るっていう目的もあるかもしれないけども、いらない水を早く吐かせたいっていうための堀であると。あとは町の中は流通のためのね。何を運ぶか?汲み取った肥えです。それ運ぶための大事な道です。

これも名前は「新潟区全図」ですが、明治16年に刊行されたものですね。

新潟区全図(越後佐渡デジタルライブラリー)へ

本井:この小さい図面は今見た新潟区全図を縮小して写したものです。だからこの万代島の中洲の形、おんなじでしょ。結構重宝されたんだよ、簡単に町の様子が分かる。銅板で一生懸命作った人がいるんだねぇ。

もうちょっと紙の端まで使って、縮尺大きくしてもらえると良かったですね。

本井:銅板の大きさがこれしかなかったんでしょ。高かったんだよ。小林二郎さんもね、なかなか頑張ってくれたんだろうけども、まぁこれだけ作れたと。これおそらく地方出版のひとつだと思いますけども、道具立てが大変だね。銅板、鉄筆、それを印刷する道具とかね。

あの大きい地図をこのサイズに、また人の手で縮めるんですね。あの巨大な地図をここまで縮小するのも、結構な出版技術だなっていう気がします。

本井:縮小そのものは機械的にできます。…が、そこはまた、その緻密な仕事が性に合った人がやらないと、大雑把すぎると今度は縮めた図面自体がもうすごい歪になってしまう。簡単に縮まったっていう感じにはならないと思いますが。

そして、こちらは明治34年の「新潟市全図」です。

新潟市全図(越後佐渡デジタルライブラリー)へ

本井:この酒井晶山っていうこの名前は、新潟の印刷の歴史の中では非常に大事な人物です。この人の印刷所は北一舎って言うんですけども、明治20年代から30年代にかけて、この人が来てから石版印刷とか、それから銅板印刷のレベルが上がったんじゃないかなと思います。ただ、詳しい経歴、あるいは時系列の事実はこの図面を並べてみるしかないんで、他にまとまった文書はありません。印刷史の中では大事な人物だと思うんですけどね。ただ手がかりがちょっと乏しすぎます。…で、これ明治29年くらいから始まった、いわゆる国営の信濃川改修事業が半分以上進んでいる様子が感じられます。

鉄道の線路も見えてますよね。

本井:もう信越線がそこまで、沼垂まで来て、「え?なんでそこで終わりなんだ」と、「新潟まで来ないと駄目だろ」と、市内の人はワーワー言ってる訳ですよ。

沼垂停車場ですね。

本井:沼垂停車場が終点になって、新潟の町としては許せない。なんで新潟駅にならねぇんだと。当時の技術としてはね、この信濃川渡って新潟の町の方へ線路を引っ張ってくるっていうのはまず難しかったろうと思います。誰が見ても、まぁ無理だなーと。

今現在だって対岸にありますもんね。

本井:うん、そうです。でもせめて、新潟の地籍に駅を、終点を設けろと、やれもか(※)設けろと、とにかく爆弾騒動起こす熱心な人が出てくるわけですよ。その人が後になって市長になるんですから。人望厚いんだよ。
(※)やれもか=なにがなんでも

新潟駅ができたのって何年くらいですか。

本井:明治38年だったかな。

この地図が作られた時は、まさに揉めている真っ最中なんですね。

本井:そこまでできて「終わり」って言われて、「いや冗談じゃないよ」っていうふうになっていってるはずです。

「でも、信濃川は渡れないよ」と。

本井:どう見たってさ、萬代橋はなんとかやっても、鉄橋架けるってのはね。とんでもないお金はかかるし、技術は要るし。しょうがないから萬代橋の袂に近い、新潟地籍のところに駅を持ってきたの、最終的に。で、それが今の場所なんです。そこからぐーっと左へカーブさせて萬代橋の袂あたりまで引っ張ってくる。ってのはさ、今新潟駅が建ってる場所含めたあの場所、プラーカなんかもある場所も含めて、あそこ流作場っていう新潟地籍の場所なんですよ、実は。川渡れなくても、せめて新潟地籍の中に新潟駅を設けたいっていうのは新潟市民の熱望ですので。

だいぶ地盤が悪かったと本にありますよね。

本井:悪い。めちゃくちゃ悪い。流作場っていう地名の付いてる場所ですから、江戸の中頃には、まだ十分な土地としては落ち着いてない。信濃川の真ん中です、中洲ですよ。だから、あそここそ液状化現象に気をつけなきゃいけないところなんです。

万代シティのあたりもですか?

本井:うん、そうそう。あの辺みんなそうです、東中通り含めて。今の地図見ても、中々そんなことまでは分からないけども、ちょっと土壌地質に関心のある人が見れば一発で分かります。昔の名残がそこここに残ってます。大河津分水ができる前ですから、ものすごい水の量ですよ。流れも勢いあるしね。江戸時代とほとんど同じだと思っていいんじゃないですか。

今日のお話しのテーマは「明治の「新潟」をたどる」ということでしたが、実は新潟の町の核となる部分は、江戸時代からほとんど変わっていないということが分かりました。

本井:地租改正って聞いたことありますよね?明治になってから税金の取り方を抜本的に変えて、いわゆる個人財産をターゲットにします。で、その個人財産の一つに、こういう土地、不動産の把握が必要なんですけども、特に土地については、民有地はすべて地番を振って、そこのデータとして詳しく測量して税金の対象にします。その時に、人は戸籍、地面は地籍っていうそういう公簿を作って、国土の、どんな一かけらでも国土ですから、そこを税金の対象にする代わりに、ちゃんと所有者の権利を守るっていうことを明治政府は実行します。で、番地がそこで生ずるんだけど、「新潟区全図」見ても分かるように、新潟区の場合は、今の白山公園の本殿の下、床下が一番地です。新潟区の一番地は白山神社の本殿の床下。で、境内の場所、今公園になってるところは二番地。憲政記念館の建ってるところは三番地だったかな。そっから地番が始まって、それから上大川前へ、ずーっときて町中ぐるぐるぐるぐると順番に地番が付いて、最後はどこまでいくのかなあ。今でいう学校町三番町の砂浜のあたりまでいくかな。5323番地あたりが最後だと思いましたけどね、その地番、全部が今も生きてます。
今となっては非常に珍しいなと思うのは、明治5年に新政府の地方官僚であります楠本県令が来て、楠本県令の時に町名の大改正するんですよ。新潟って、その時の町名が大半生きてます。町のその範囲も、それから地割が全部そのまま。何番地っていう番地が生きてるんですよね。全国調べてみるとね、百何十年経って、明治の、あるいは江戸の名残がこんなにしっかり残っている町って珍しいと思います。特に町名がそのまんま残っているっていうのは珍しい。

どうして残っているんですか。

本井:残したかったから。

人々が?

本井:うん。変わんの嫌だったから。まぁ楠本さんが「変える」って言って変えたのは、しょうがないから守るけども、それ以後ね、自発的に「ああしましょう」「こうしましょう」ってことはほとんど無いんですね。それから何丁目何番何号っていう、今住宅地に敷かれている住居表示が受け入れられなかったっていうのは、未だにそんな必要ないよって言ってる人が多い証拠なんですよ。こんな頑固な町ね、全国でも珍しい。それをね、いい意味で自信持ってほしいんです。

一枚の地図から新潟市民の人となりが見えてくるようですね。春になったら古い地図を片手に新潟の町を散策してみようと思います。

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