言葉の教科書

第40回(令和2年度)

全国高校生読書体験記コンクール県入選

山下紗也華さん(私立新潟清心女子高等学校)

(取り上げた書名『古今和歌集』/著者名:中島輝賢編/出版社名:KADOKAWA)

日本には、花見という風習がある。元をたどってみると、花見というものは奈良時代からあるそうだ。日本では毎年恒例の、誰でも知っている風習。勿論私も何度かした事はある。

現代ではよく、ニュースや新聞などでゴミの散乱や集団心理・酒酔いからのトラブル、嫌な部分ばかり目にとまってしまい、あまり“行きたい”。と良い印象を持つことが出来なかった。ても今は早く桜をみたい、花見をしたいと思うようになった。

中学校に入った頃から国語の授業では、古文も習うことになる。習い始め立ての時は、面倒だと思っていた。単語の意味も、例えば「驚く」は「びっくりする」ではなく「はっとする・目を覚ます」という意味で、文脈も現代の文となにもかも違ってみえて、まるで外国語を読んでいるような気分だった。でも、授業なのもあって嫌でも向き合わなければいけない。勉強し、段々と知識も身につき、ある程度内容も理解できるようになった。

そして私はようやく、古典の魅力に気がつき、個人的に古典の作品を読むようになり、『古今和歌集』と出会った。
 表現の鮮やかで繊細なこと。作品を読んだ時、その詠まれた景色を実際に見ているかのような感覚になった。

『古今和歌集』の数ある作品の中でも、桜について詠んだものが多く、咲き始め、満開の桜、散っていく様、あらゆる桜の場面を詠んでいて、散る桜を雪のようと例えたり、自身や女性を桜と見立てたり、「桜」という題一つでも一つひとつ違う捉え方で沢山の作品があり、それにつられて私も、桜に対して凄く魅力を感じ、花見にも、“行きたい”。と思えるようになった。

この様なことは花見だけに留まらず、色々な事にも影響を与えてくれた。その一つとして、「時間」がある。例えば花を詠んだ作品だと、視覚だけでなく、「香りが残る」という感じで嗅覚も使い名残惜しさを表現したり、助動詞からも過去、現在、完了など、巧みに組み合わせて「時間の流れ」を感じさせられる。満開に咲き誇り、そして散っていく桜、季節が丁度変わっていく様子が、それぞれ一つの作品、それもたった三十一文字の中に、「時間」が組み込まれている。

私は「時間」というものをそんな風に、そんな目線で捉えたことはなかった。ただ「過ぎて当然のもの」としか思っていなかった。「時間」のように身近にある、ちょっとしたものに目を向け、少し遠くの目線で見ることこそが、私が『古今和歌集』古典という作品に出会って、できるようになったこと。

そしてこれは、古典作品、昔の言葉で表現される。映像でも、写真でもなく、現代の言でもなく、昔の言葉の表現だからだ。

映像は、実際に映される景色と時間を動かす。対して言葉で作られるのは、作品を鑑賞し、一人ひとりがそれぞれ、作品を基に自分で景色を思い描く。作られた景色と作る景色、ここが映像と異なる。

写真は、瞬間を切り取っていて、一枚の写真だけでは「時間の流れ」を感じるのは難しい。

そして、現代の言葉というのも、時代が進むにつれ、少しずつ変わり、今の中高生、若い世代の人が使う若者言葉は、何かと省略されているように感じる。例えば「り」「よき」という言葉。それぞれ「了解」「良い」という意味だが、こんな一、二文字で会話したり、感想を述べれたりしてしまう。どちらも文字数、感情を表すことも省略している。会話としては効率的かもしれないが、読み取る側としては、実にほんわかとしていてぼんやりしてしまう。昔の言葉というのは、作品からも分かる通り、表現豊かに詠まれているため細部までくっきり、はっきりと思い描ける。

このようなことから、古典作品、『古今和歌集』私の大好きな作品たちがみせてくれた景色のおかげで、嫌な印象を払拭したり、いつも当たり前に身近に存在するものにも目を向け、遠くから見て、気づくこのできなかった新しい魅力を発見できるようになった。

最初はあんなに面倒で嫌だった古典の授業も、今となっては大好きになり、それがきっかけで手に取った『古今和歌集』も、私の視野を広げてくれた、私だけの教科書のような存在。

きっとこの教科書は、学校で学ぶ内容のような、これから生きていくことに関わるくらいの、重要なものではないけれど、時々息抜きする、小さい楽しみを見つけだすそのやり方を教えてくれる、特別なものだから。

だから私はこれからも今日も、私だけの教科書を開いて、言葉のみせてくれる景色から、勉強させてもらおう。

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