学びの連鎖
第41回(令和3年度)
全国高校生読書体験記コンクール県入選
森向日葵さん(新潟県立新潟高等学校)
(取り上げた書名:『ヒマラヤに学校をつくる カネなしコネなしの僕と見捨てられた子どもたちの挑戦』/著者名:吉岡大祐/出版社名:旬報社)
「お母さん、名前が書けたよ。」初めて名前が書けたとき、嬉しさのあまり、教室を飛び出した女の子がいた。当時九歳の女の子だ。日本では四年生になる年齢である。日本では当たり前に教育を受けることができているがそれは本当に「当たり前」なのだろうか。
先ほどの少女はネパールに住んでいる。ネパールは貧しい国であり、子どもの五人に一人が児童労働者として働いていると報告されている。法律で児童労働は禁止されているが児童労働比率は世界で最も高い。貧しい農村では、生産力がなく、農業以外の仕事もないため、子どもが首都へ働きに出されている。裸足のままゴミ捨て場でゴミをあさる小さな女の子、粉塵で顔が真っ白になりながら働く少年の写真からは、私たちが想像もできないような悲惨な現実がそこにあることが伝わってくる。
そして、貧困の原因のひとつとなっているのが差別の問題である。ヒンドゥー教社会であるネパールには、カースト制度が現代でも人々の考え方に根強く残っている。また、女性の社会的地位がとても低い。そのため男子誕生が望まれ、女子を出産しただけで差別を受け、家族から暴力を受ける女性もいるという。宗教というのは人々を救うためにあるものなのに、ネパールでは宗教によって苦しんでいる人もいるのだ。
貧困というのは連鎖していくものであると思う。貧困家庭で育った子どもは教育を受けることができず、収入の多い仕事に就くことができない。そのため、子どもにも満足のいく生活を送らせてあげることができない。この問題を解決しなければこの先もずっと、苦しむ子どもたちが生まれることとなるのだ。
しかしそんな過酷な状況で暮らす子どもたちは「学びたい」という強い意志がある。ろうそくの明かりを頼りに床で字を書く子や、仕事後に汗まみれのまま寺子屋に学びに来る子どもたちの心には、学びへの憧れと楽しさでいっぱいなのだと思う。私はそれを知って少し後ろめたい気持ちになった。学校に行くことが「義務」であり、勉強が「やらされていること」という意識になっていたからだ。豊かさの中で大事なものを見落としている自分に気が付いた。なぜ私は学校に行き、勉強しているのだろう。
数学の公式や、古典文法の知識が私たちの日常生活で必要となることは少ないと思う。しかし、それらを学ぶことによって、分からない問題を別の角度で考えたり、物事を関連づけて考えたりする力がつくのではないかと思う。そしてその力が、将来人を助けることにつながるのではないかと思う。
筆者は鍼灸師としてネパールに渡ったが、そこで暮らす子どもたちの様子から、支援活動を始めた。しかし、資金の不足や親の協力を得られないことなど課題は多く、何度も壁にぶつかった。そんな時に問題点を見つけ、修正し、新たな方法を実践することによって学校の建設に成功した。そのような考え方ができるのは学びがあってこそだと思う。
そして何より、学ぶことは楽しいことなのだと思う。今まで知らなかった言葉を知ったとき、世界が広がるようでワクワクする。試行錯誤の結果、問題が解けたとき、達成感でいっぱいになる。ネパールの子どもたちが学びたいと思うのは、生きるために最低限の知識をつけたいという思いに加え、新しいことに出会う喜びを感じたいと思っているからなのであると思う。子どもたちの笑顔にはその気持ちが表れているように感じた。今の私は点数や周りと比較した順位などばかりを気にして学びの楽しさから離れてしまっていたように思う。ネパールの子どもたちから、大切なことを思い出させてもらった。
筆者はネパールの子どもたちのために学びを活かしている。ネパールの子どもたちは家族のために学びを活かそうとしている。私は何ができるだろうか。
私は子どもの貧困の問題に関心があり、今回この作品を読んだ。今までにも、日本の子どもの貧困や栄養不足の問題について学んだことがある。学びを深めるにつれて、私も何か力になれないかと思うようになった。その「何か」を見つけることが今の私ができることであると思う。そのために、常にアンテナを張り続け、日々の学びから将来に向けて力をつけていきたいと思う。
貧困は連鎖する。しかし、学びも連鎖していくものではないかと思う。誰かから教わったことを別の形で誰かにつなげることで広がっていくのだと思う。そのつながりの中で、私とネパールの子どもたちがひとつになれるように、学びを自分の力にしていきたい。