「嫌われること」を恐れずに
第42回(令和4年度)
全国高校生読書体験記コンクール県入選
渡辺光里さん(新潟県立高田北城高等学校)
(取り上げた書名:『嫌われる勇気』/著者名:岸見一郎,古賀史健/出版社名:ダイヤモンド社(発売))
私は幼い頃に吃音症という言語障がいを発症し、今でも障がいを持ちながら生活している。吃音症とは、言葉が円滑に話せない障がいである。言葉の一音が詰まる、同じ音を繰り返してしまう、語の一音を伸ばしてしまうなど、人によって様々だが、どの症状も喋り始めるまでに時間がかかってしまう。情報通信技術が発達し、多くの情報が簡単に入手できるようになった今の時代だが、吃音症の認知度は未だ低く、理解されにくい障がいである事が問題視されている。
小学六年生の時、新しい委員長を決めることになった。毎週行う委員会で司会、進行をしなければいけなかったので、人前で話す事が難しい私は、正直委員長になりたくなかった。だが、他のメンバー全員に推薦され、断りきれず、気の乗らないまま委員長になった。思い通りに言葉が出ず沈黙が続く教室、私を見つめるまわりの目、時折分針のカチッという音が聞こえるだけの時間が私を苦しめた。それからは今まで以上に人前で話すことが怖くなった。将来の夢も吃音症の事を踏まえると、電話対応やプレゼンテーションなど他の人の時間を奪い、迷惑をかけてしまう可能性のある職業は、たとえ興味があったとしても、諦めていた。
そして、中学二年生になった私は、近所の図書館へ行き勉強していた時、タイトルに惹かれ、ある本と出会った。その本が「嫌われる勇気」だった。私は借りて家で読んでみた。この物語は、青年と哲人が、心理学者「アドラー」の思想に基づき「幸せに生きる方法とは何か」というテーマについて対話し、青年が徐々に「アドラー」の教えから今後の「生き方」を学んでいくという内容だった。
私はこの本を初めて読んだ時、「アドラー」の考え方に共感できなかった。それは、「アドラー」が提唱した「目的論」である。「目的論」とは、人は何かの目的があって、今の状況を作り出している、という考え方だった。この考え方を私の体験を例としてみると、小学校の委員会で味わった辛い過去が忘れられずに、今も人前で話すことを恐れている、といった「トラウマ」を「アドラー」は完全に否定してきたのだ。「アドラー」は、過去の「原因」ではなく、今の「目的」を考えた。つまり、私は苦しかった過去があるから今も克服できないのではなく、「人前で話すことを苦手とする」という「目的」を達成するために、不安や恐怖という感情を自ら作り出しているというのだ。今まで苦労し自分なりに努力してきたと思っていた私は、自分の考えを否定されているように感じ、読むのをやめてしまった。
それから二年経ち、高校生になった私に母はこの本を強く薦めてきた。読みたいと思ったわけではないが、なんとなく本を開いた。
私は、読む中で始めはやはり「アドラー」の思想がよく分からなかったが、読み進めるうちに「アドラー」の教えの捉え方が中学生の時と今でまったく異なっている事に気づいたのだ。「アドラー」はただ「トラウマ」を否定するのではなく、「トラウマ」なんてないから人は変われると主張していた。今生きていて辛い原因を過去のせいにしたところで、私たちは何も変われない。しかし、変わる勇気を持てば人はいくらでも変われる。人の目が気になって自分に自信が持てなくても、他人からの評価を自分でコントロールする事は不可能。だから、いつまでも怯えず「嫌われる勇気」を持ってでも、自分のやりたいようにやれば良い。それがこの本が私に伝えていた真の答えだったのだ。
私はこの本を読み、はっとさせられた。今まで生きてきた中で吃音症を理由にして、まわりから「変わった人」と思われるのが嫌で諦めた事が数え切れないほどあったが、全て楽をしていただけだった。もう後悔していても過去は変わらない。だが、これからの自分を変えることはできる。
この本と出会って、「吃音症を持っていなければ様々なことができたのに。」という考えを捨てることができたので本当に読んで良かった。「自分の幸せ」に悩む、悩まない関係なく、多くの人々に読んでほしいと感じた。見た目では理解されにくい障がいのハードルをこの先、下からくぐるのか、上から飛び越えるのか。進路について悩んでいた今、私の答えは迷う事無く、一択に絞られた。